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第 10 回 偉大な東山とし子さん 渋谷のんべい横丁『鳥重』さんの想い出

2017.12.29

 5年前の今日12月29日 ― 奇跡の焼鳥屋 ― 鳥重さんが、沢山の方々から惜しまれつつ、61年の歴史に幕を下ろしました。
お店が存在した『 のんべい横丁 』はJR渋谷駅の目と鼻の先に在るにもかかわらず、まるで昭和初期にタイムスリップしたようなたたずまいです。
 引き合いは有ったのに、誰にも営業譲渡しなかった鳥重さんの店舗は、今もそのまま残っています。

 友人に誘われ私が初めて鳥重さんにお邪魔したのは、2003年の夏のことでした。

 6~8畳の広さの店が40軒ほど連なった一角、鳥重さんの店前に午後6時、7時半、9時半の毎日3回、10人の行列ができます。のんべい横丁全店舗の中で当時は鳥重さんだけが、完全予約入れ替え制で営業していたのです。
 
 鳥重さんは1951年、東山とし子さんのお父さんが創業しました。
小学生からお手伝いをしていた東山さんは、長じて後、お母さんお兄さんと共にお店を引き継ぎます。そしてお二人が亡くなった後の27年間は、東山さんがたったお一人で切り盛りをしておられました。

 私達は、7時半の予約で伺いました。鳥重さんに到着してみると既に行列ができていて、恐らくはご常連なのでしょう、皆さん楽し気に話に興じていました。
私はその方達の話に聞き耳を立てたりのんべい横丁の居並ぶ店々を覗いたりと、待ち時間を結構楽しみました。当時ののんべい横丁は決して有名スポットではありませんでしたから、鳥重さん以外で行列の出来ている店は一軒も無く、閑散としたお店さえ有りました。
 
 さて入店時間となり交代時間が過ぎているにも拘らず、前の組のお客さんがなかなか出て来ません。外から店内を覗いてみると皆さんが、一様に名残を惜しんでグズグズしていらっしゃるのです。
 しばらくしてやっと東山さんに促され、お店の中が空になりました。
その後ウェイティング組が一組ずつ名前を呼ばれ、東山さんと思いやりの籠った挨拶を交わしながら、ニコニコと中へ詰めてゆきます。見ていると皆さんが、座るより先にテーブルの片付けを手伝っているのです。私も慌てて、真似事をしました。いや~驚きました。
そして布巾掛けをすると、やっと順々に座ってゆきました。この様なことが誰言うともなく、ルール化しているらしいのです。
 『 袖すり合うも他生の縁 』と言いますが、小さなL字型のカウンターは鮨詰めで、山手線の座席にも負けません。その上、店内はカウンターも壁面も長椅子も厨房備品も、充分に年季が入っていました( これは少々控え目に書いています )。

 当時62歳だった東山さんの第一印象は、お綺麗ではありましたが造形的に見れば、超美形という部類のお顔ではないと感じました。しかも変哲の無いブラウスとスカートにエプロンを付けた出で立ちで、小さなお孫さんに料理を作っているおばあちゃんの、昭和庶民の台所の立ち姿といった風情です。
しかし洗い立ての『 戦闘服 』と綺麗にまとめ上げたヘアースタイル、凛とした薄化粧には決意と気概が滲み出ていて、表情やお客さんへの受け答え、予約電話への対応を拝見しているうちに、東山さんが大変美しい顔貌に見えてきたのです。

 全員が落ち着くと、一組ずつ注文を訊いてくださいます。
私は友人お薦めのナマ( 鶏ささみとレバーの刺身 )、そして好物の合鴨焼き、レバー焼き、正肉焼きをお願いしました。すると「 そんなに食べられますか~? 」と東山さん。「 大食漢なので、お代わりをお願いするかも知れません 」と私。東山さんは、呆れ顔で私を見ておられました。
 
 立ち居振る舞いと表情やお客さんとの遣り取りから、東山さんが誠のある、真に心優しいお人柄だと判ってきました。
この様な心根の人物が作る料理は絶品に決まっているのですが、最初に供された『 ナマ 』の見栄えと食感そして妙味には、驚嘆させられてしまいました。マシュマロ、フォアグラ、そして程好い柔らかさとなった極上のアイスクリームを併せた様な食感と舌触り。香りにもほのかな芳しさが有って、とても動物の肝臓とは思えません。
鶏レバ刺しで、この様な感動を得た経験は皆無です。これはきっと私には未知の、特別な鶏肉を使っているに違いないと確信しました( 後にこれが間違いであったことが判ります )。
 
 「 焼き物は塩にしますかタレにしますか? 」と聞かれたので「 塩でお願いします 」と答えると、「 オトナですね~ 」と東山さん。当時52歳の私が、オトナと言われたのにはクラクラっとしました。しかしその物言いの艶っぽさとエレガントさには、もうひれ伏すしかありませんでした。

 さていよいよ、待望の串焼きが出てきました。これが想像を超える大きさで、私の注文量は常人なら持て余すに違いありません。
 先ず犬の様に香りを楽しみ、次にレバー焼きから口に含みました。
 
 う~ん‼、、、、、、。 その超絶の火の通り具合に、私はまたまた、東山さんにひれ伏しました。
塩も何か特殊な物に違いないと思い( これも間違いでただの精製塩でした )、次に出てきたお待ちかねの合鴨を眺めました。どうやら胸肉ではありません。
 私は常々どんな鳥の肉でも、料理の食材としては胸肉よりモモ肉の方が、上だと考えています。
かぶり付いてみると、鳥重さんの合鴨は明らかにモモ肉でした。
ただ料理によってはモモ肉の筋が歯応えを与え過ぎる為、見た目の良さと相俟って、ローストなどでも胸肉の方が良いと言われることが有ります。
ところがどうでしょう。鳥重さんの合鴨はモモ肉の筋がすっかり取り除かれていて、私の好みとしてはもう完璧の域なのです。
この様に手の掛った鴨のモモ肉料理は、滅多にお目にかかれるものではありません。
 
 寿司でも下ごしらえが木目細かな手仕事には、その労力と費やした時間が全部、付加価値として料金に反映されるものです。一事が万事と言いますが、鳥重さんの料理には、全てに相当な手間がかけられています。会計時に幾ら請求されるかと、私は興味津々でした。

 営業中にもレトロな黒電話に、次から次へと予約が入ってきます。
「 はい、鳥重でございます。ま~、○○様ですね、いつも有難うございます。お元気でいらっしゃいましたか?○月○日2名様ですね。お待ち申し上げていますよ。どうぞ気を付けてお出でくださいませね 」。一応文字にしてはみましたが、東山さんの声色から感じ取れる篤実な心根は、到底伝わるものではありません。
しかも大変な記憶力です。ほとんどのお客さんの顔と名前を、ちゃんと覚えておられるのです。
私の二度目の予約電話でも、初回お邪魔した際のことをよく覚えておられ、びっくりしたものです。
 誰だったかどこかのメートルドテルが教えてくれましたが、『 覚えようとする意識が強いのと弱いのとでは、記憶の残り方が全然違う 』。東山さんもお客さんのことはカスタマーではなく、ご自分の大切なゲストと思っていらっしゃるのでしょう。

 更には初訪問のこの日、私はその日いただいた料理にも増した、大きな感動を味わいました。
お客さんのお一人、二十歳代前半と思しき若者が、「 おばちゃ~ん、ビールもう1本ちょうだい 」と敬意の微塵も無い追加注文の声を上げたのです。ところが東山さんは、「 は~い、ちょっと待っていてくださいね 」と顔色も変えず、満面の笑みで返事をなさるのです。
 ご自分のなさっていることへの僅かな自負はお持ちでも、東山さんには全く気負いも衒いも優越感もありません。『 世の中の、立派な生き方をしていらっしゃる方達に比べれば、私は大したことをしているわけではないんですよ 』この様なことも、東山さんは仰っていました。

 これだけの料理と心有る接客は、志の高さと技術と経験、そして何よりも、『 大切な方に食べていただく 』という心に込めた想いが無ければ到底できるものではありません。
つまり東山とし子さんは料理人としてばかりでなく、人としても最高の部類の人物であったわけです。
 その様な東山さんに向かって孫ほど年齢の離れたお客さんが、悪意など無いとは言えぞんざいな口を利いたのです。傍らで見ている私達の方が『 もう少し丁寧な物言いができないのかな~ 』と、思わず顔を見合わせたものです。
 
 東山さんは、人間の価値は社会的地位、能力、財産、年齢、出自等と何の関係も無いという認識が、骨の髄まで染み着いているお人柄でした。この様な事態さえ、意にも介しません。

 商売人でも取引先へ売り込みに行くと『 米つきバッタが手揉み 』する様な態度なのに、立場が反対になると打って変わって『 お客様モード 』で横柄になる人達がいます。その類の人はお金に対して頭を下げているわけですが、東山さんは相手が誰であれ100パーセント平等で、いつでも誰にでも敬意を払って接していました。
鳥重さんが仕入れをしていた業者さんも( 鶏肉も酒類も61年間替えることなく同じ取引先 )、東山さんの分け隔ての無いお人柄を、絶賛していたものです。

 この様なことを申し上げると東山さんから『 恐れ多い 』と叱られるに違いありませんが、もうすぐ御退位なさる天皇皇后両陛下と同じように、東山さんには誠が有り誰に対しても謙虚で慎ましやかで、品位を備えた生き方を貫く人物でした。

 鳥重さんは錚々たるご常連に恵まれていましたから、脚光を浴び名声を得ようと思えば叶いました。また、値上げをしようとすればいとも容易に、お客さん方は受け入れてくださったでしょう。
 初めてお邪魔した折、充分に食べ二人共ほろ酔いになったのに、会計は、一人僅かに二千円ちょっと
でしかありませんでした。
余りにも申し訳が無いので二人分で五千円を差し出し、「 今日は立派な『 舞台 』を拝見させていただいて、本当に有難うございました。大変に失礼ですが、このままでお釣りは結構です 」と申し上げたのです。するとお釣り銭を両手で私の手に握らせながら、「 そんなこと仰らないで、これで北海道に土地でも買ってください 」とユーモアたっぷりに切り返されてしまいました。
 
 値上げをすれば仕込みの手間が省け、お手伝いの人手を得、見栄え良い食器備品も使え、収入も休みも増え、小洒落た装いでお店に立ててと、良いこと尽くめだったはずです。
 しかし東山さんは常人の『 欲 』には目もくれず、修道者の様に2012年12月29日を迎えたのです。

 鳥重さんは料理は超一級品ですが、食器類は失礼ながらそれに相応しい代物ではありませんでした。設えも前述の様なお店なので、私が連れて行った中には、喜んではくれない知人もありました。
もちろん私には、洗練されサービスもホスピタリティーも申し分のない、お気に入りのグランメゾンも有ります。しかしその様なお店を全部ひっくるめても、東京で一番敬愛して止まない飲食店が鳥重さんなのだと、どんな方にも宣言していました。
 ネット上のグルメサイトにも出ている為、記事に引かれた『 見物衆 』も来店しています。しかしほとんどのお客さんは、東山さんに魅了され通い続けている固定客なのです。

 毎日長時間の立ち仕事に加え( 営業時間中は、トイレにさえも行きません!? )、手塩にかけた料理の仕込みと準備は殆どをお一人でなさっておられましたから、想像するに余りあるほど骨身を削る日々だったはずです( 平均的日課は、後片付けが終わっての就寝午前4時半、仕込みは午前9時半頃には始めていたとのこと )。
 また病気でお店を休んだことは、一日も無かったそうです。臨時休業も、一緒にお店をなさっていたお兄さんとお母さんが亡くなった時だけとおっしゃっていました。
 
 予約の無断キャンセルが一番嫌いとのお話でしたので、私はその理由を、自分の俗人的な発想で想像していました。ところが真相は、せっかく予約を入れてくださろうとしたお客さんを先約がいっぱいでお断りし、後になってその方が、直後に亡くなられたと知った為でした。
その時は申し訳なさに、胸が張り裂けそうだったそうです。
『 人生最後の想い出にと、思われたのかも知れない 』。
その様な強い後悔の念が、東山さんの心に刺さったトゲだったのです。

 健康を心配したお連れ合いとの間には、創業60年でお店を畳むとの約束が有りました。
しかしお客さん方に段々その噂が知れ渡ると、一カ月先の予約さえも取れないようになってゆきました( 最後には、三カ月先でも予約が取れなくなりました )。
そのため東山さんは思い悩んだ末、それまでに予約を取れなかった方、入りきれなかった方達の為に、『 お礼奉公 』をさせて欲しいとお連れ合いを説き伏せ、廃業を一年間先延ばしにしたのです。

 鳥重さんは『 奇跡の焼鳥屋 』と呼ばれていました。色々な方が様々な理由で奇跡と形容したのですが、あの東山とし子さんの心根や思考、そして生き様こそが『 奇跡 』でした。
 誰にも真似はできませんし、またする必要もありません。しかしあの様な女性がいたと知ることは、飲食店経営をする上での計り知れない妙薬となります。

 鳥重さん、と言うよりは偉大な東山とし子さんから受けた啓示は、生涯私の中に残り続けます。
 
 鳥重さん廃業の直前、講談社から『 ぶつよ! 』という本が出版されました。
コンサートホールの響きが、最新の録音技術を駆使してさえ捕らえ切れないように、あの鳥重さんでの至福のひと時は、本からでは、僅かに窺い知ることしかできません。しかしながら、品性を持つ人物が等しく大切にする『 人としての原理原則 』の源泉が、東山さんの言葉として、その本の中にいくつも出てきます。また、鶏肉を始めとした鳥重さんのご商売の秘密・秘訣も、明らかにされています。
 是非の一読を、お勧めいたします。

 『 嫌で嫌で仕方なかった店が、天職になった 』と仰っていた東山さん。
また、ご自分の現在の境遇を、『 天の恵み 』だとも仰っていた東山さんの廃業までの20年程は、正に『 お客さん方の幸福感に殉ずる日々 』でした。
世の中が本当は、この東山さんの様な方々に支えられて成り立っているのだと、つくづく思い知らされます。
 
 廃業時に71歳になっておられた東山さんは、旅行などにも出られたことが無く、なさりたいことが、山ほど有ると仰っていたそうです。

 東山とし子さんがお元気で末永く、お客さんに与え続けた幸せが余生で報いられますよう、ひたすら祈念するばかりです。

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